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こんにちは!
横浜に住むようになり、8年近くなる。横浜駅から石川町あたりまでが私の散歩エリアだが、このあたりには、興味深いエリアが非常に多い。
筆頭は、私のはしご酒ツアーでも度々お邪魔する「野毛」。そこから歩いてすぐのところにある「伊勢佐木モール」もなかなかワイルド。海側には「馬車道」「みなとみらい」のようなオフィスエリア、兼、商業エリア。
さらには「横浜ベイスタジアム」に「横浜中華街」(神戸南京町、長崎新地とともに日本3大中華街)。「横浜元町ショッピングストリート」にあるブランド・ショップやおしゃれ気なお店も見逃せない。
もちろん「横浜駅」の西口・東口も忘れてはいけない。これだけ、建設現場が絶えないエリアは珍しいと思う。そんな中、下の地図の通り、最高の立地にして、最も立ち入りにくいエリアが「寿地区」「寿町」エリアだ。
場所は、下の地図の通り、JR東日本京浜東北線石川町駅(元町・中華街)から歩いてすぐ、駅の反対側には、横浜公園(横浜スタジアム)がある。横浜市だけでなく、不動産会社だって、再開発に向けて、喉から手が出るほどのドル箱エリアに違いない。
寿町
横浜公園の下のあたり、線で囲まれている長方形のエリア。見ての通り、石川町駅からすぐ
寿町とは(ウィキペディアより引用)
寿地区は首都高、根岸線を挟んで関内の反対側に位置し日雇労働者が宿泊するための「ドヤ」という簡易宿泊所が100軒以上立ち並び「ドヤ街」と呼ばれる地区である(ドヤ街は、日雇労働者の就労場所と合わせて寄せ場とも呼ばれる)。寿地区は、東京都の山谷、大阪市のあいりん地区(釜ヶ崎)と並ぶ三大寄せ場の1つとされる。寿地区周辺は、第二次世界大戦後、1955年までアメリカ軍によって接収されていた。接収終了後、職業安定所の寿町への移転や簡易宿泊所群の建設がはじまった。これにともない、日ノ出町周辺や黄金町付近の大岡川沿岸バラック群(大岡川スラム)、さらに水上ホテルといった宿泊施設から港湾労働に携わる日雇労働者が、大勢移入。まもなくドヤ街が形成された。他の寄場とは異なる寿地区のドヤの特徴は「門限なし」「自室に入るまでの廊下での外履き」が挙げられる。
三大〇〇という表現が好きだが、ここは、日本三大寄せ場(ドヤ街)のひとつだそうだ。
たった、200m ✕ 300mの狭いエリアに120軒ものドヤがひしめき、6,000人もの単身男性が宿泊、しかも、今や、半数以上は高齢者だそうだ。
一気読み!ノンフィクション『寿町のひとびと』by 山田清機
そんな街も「寿町「ドヤ」から「ヤド」へ 」というスローガンをもとに、バックパッカー向けの簡易宿泊施設などへ、時代の流れとともに変わろうとしている。街の発展、混乱から衰退にかけて奔走した人物を中心にライターの山田清機氏が、6年もの取材で今回、出版したのが『寿町のひとびと』。
取材対象の人物が興味深く、気が付いたら、貪るように366ページを読み切ってしまった。
このフィクションで筆者が取材する関係者の数々
ドヤの住人達、日米ハーフのドヤの住人、NPO法人で介護ヘルパーの男性。キマ語という日本語に暗号をかけた言葉を話す若者達、ドヤの帳場さん(ホテルのフロントのような感じ)、ホームレス支援団体、長年この地区を担当した刑事、子供を共同で育てるという方針で始めた共同保育の創始者、せんべろならぬ、500円べろの酒屋、市役所と地域との間で奔走した人々、アルコール依存症施設関係者、牧師などなど
ひとりひとりの人生と、寿町に住むようになった経緯が、どの人も非常に興味深い。
感想
このドキュメンタリーでは、この街がバラバラにならないように、もしくは、一人でも命を救うように、もしくは、みんなで協力して子供を育てるように奔走した人々の静かなパワーや熱意を感じられる。
また、この街で住むようになった人々の人生から、誰もが、同じような境遇になる可能性もあることが分かる。
戦後の焼け野原からの復興、高度経済成長、石油ショック、バブル崩壊等、時代の波に翻弄されながら、この都会の一角において、一つの生命体のようなコミュニティが存在しているということに衝撃を受けた。


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