こんにちは!ひろさんかくです。
名作なのに、今まで見てなくて、だいぶ前から見るべき映画リストの上位に君臨し続けている。ただ、離婚関係の話だから、楽しくないだろうと思い、なかなか気が進まないでいた。よく確認すると上映時間が2時間切ると言うことなので、短い映画を好む私は、思い切って見てみることにした。
さすがアカデミー賞5部門受賞作、類いまれな傑作であることが分かる。そこには派手な映画音楽などなく、日常そのものが、まるで切り取って持ってきたみたいに詰まっている。日常と言っても、ウィル・スミスの「幸せのちから」のようなジリジリするような現実は省略されているのも、気軽に見れて助かる。
邦題は「クレイマー、クレイマー」だが、原題通り「クレイマー vs. クレイマー」としないのは、本当の夫婦対決の物語ではなく、2人の自己の確立を描かれた映画だからかもしれない。
名作!「クレイマー、クレイマー(Kramer vs. Kramer)」
概要
1970年代後半制作のアメリカ映画。1960年代からの公民権運動(人種差別)に続き、ウーマンリブとして知られる女性解放運動、離婚・子供の親権争いの裁判増加が、この映画の時代背景。
あらすじ
ウィキペディア(Wikipedia)などでも詳しく書かれているの省略。
感想
以下、いくつかの視点から感想を語ってみたい。
テッドの出世は猛烈サラリーマンだったから?
主人公であるダスティ・ホフマン演じるテッドは、家庭のことなど省みない仕事人間。毎晩、帰りも遅い。結果、離婚することになるが、別居後、シングルファーザーとして、子供の世話をしながら働くことで、仕事のトラブルも起こし解雇される。
おそらく、あのまま仕事人間を続けていたら、当時だったら、重役になるチャンスをものにできたと思う。一方、子育てをしながら仕事が理由でクビになった訳ではない。子供との時間・生活の方が大切と分かったから、仕事より、子供を優先したことで、出世争いにも勝てなくなったのではないかと思う。
人として、父として、何が大切か分かって良かったのだと思う。出世する人は、何かを犠牲にしているのか、誰かの支えのおかげか、本当のスーパーマンなのかもしれないと思った。
ビリーはどちらを選ぶ?
2人の子供のビリーは、裁判に呼ばれていたら、どちらを選んだのだろう?
地方裁判所の判決は、テッドの敗訴。上告して勝つには、子供を法廷に担ぎ出すしかないと言う弁護士。そのような状況は受け入れられず、敗訴が確定する。
母親がいなくなってから、18ヶ月もの間、父と二人。最初は慣れない生活、寂しい思いもする。でも、一年半と言う期間は長かったと思う。2人でタッグを組んで生き延びてきた。
敗訴が決まった後、不安でしょうがないビリーは、当初はあれだけ求めていたのに、母のところに戻ることに不満を覚える。
母親が、戻るのが遅すぎたのかもしれない。もちろん、メンタルも生活も落ち着いて、子供のことを考えられるようになるのに、これだけもの期間が必要だったのだと思う。それだけ、家を出る直前の彼女は病んでいたのだと思う。
現代だったらどうなった?
現代のアメリカなら、専業主婦は、もっと少ないだろうし、男女平等が当時より改善されている。メリル・ストリーブ演じる妻であり母のジョアンナが、家に閉じこもることで、自身のアイデンティティが分からなくなり、悩み苦しみ、結果、家を出ると言うような事態は避けられたのかもしれない。
逆に、夫婦が働くことで、別の問題が出てくるだろうから、別居が避けられたかどうかは、現代でも分からない。
離婚裁判は有効?
親権を争うには、裁判しかないのか?
お互い、冷静に会話できなくなっていたり、信頼関係も壊れているのだから、両者間だけの会話で、親権や養育費などシリアスな問題を解決するのは困難と思う。
映画では、法廷で、元妻が泣くまで厳しく責める自分の弁護士に対し、厳し過ぎないかと気にするテッド。
子供が怪我をしたのはテッドの責任であり、親としての管理能力不足を指摘した元妻の弁護士。そのような責め方をすると思っていなかったジョアンナはテッドに謝る。
2人の友人である近所の女性も裁判に証人で出る。彼女も、裁判で夫婦としてのあり方を深く考え、離婚した夫とやり直すことになる。
お互いのことを思いやり、子供を第一に考えた結果、最善の結論が導き出される。裁判が有効かは不明だが、裁判を契機に真剣に考えた結果であることは正しいかもしれない。
考察参考になります。ありがとうございました。
名作であり、今でも現代社会の問題を考える上で大事なことを気づかせてくれますね。
1つだけ、訂正をお願いしたいのですが、母(奥さん)の名前は、Joannaです。
Junyさん、
コメントとご指摘ありがとうございます。
いま、訂正しました。